久しぶりの文楽 『冥途の飛脚』
朝、むかつくマンションの管理組合理事会があり、
悲しい物語を、太三味線と、思い入れタップリの太夫の声で語られると、
カタルシスで、スッキリするだろうと、いそいそ向かった。
若いころ、文楽に相当入れ込んだ時期があり、ある程度の出し物は観ている。
舞台を観て、ああこれも観たことがあるなぁ、と。
コンサートでも芝居でも、何でもそうだが、演っている人々の、
ノリノリがいい舞台に当たれば、幸運と言うもの。
これが映画と違うところ。
つまり生もの。
っで、この日がどうだったかと言うと、鳴かず飛ばず。
閑話休題。
近松は大昔の人だが、この何というか、物語にならない物語を、
ここまで見事に書き上げた才能。
凄い!
生活力、意思、分別、そんなもの一切持っていない、情けない、ただの色男の話なんです。
近松の世話物には、そんな男がよく出るが、これが実にいい。
このポスターの人形は、たぶん、曾根崎のお初だと思う。
また、閑話休題。
若いころ、文楽を観にいったら、
必ず大嫌いなオカマに遭ったものだが、あの子は根性がきつかったから、
そにれなり生きているだろなぁ~、
とフト思い出しながら、灌漑に耽った。
若いころ、一緒にワイワイやったオカマ達は、
みんな、消息不明になっている。
時々、「あれっ?」って思う人を見ることがある。
たいがい、安っぽい若作りをして、ゲッソリしている。。。。。
期待外れの『クラナッハ展』
ボクは、クラーナハという文字面で記憶していた。
「ッ」の促音のイメージより、「-」の棒引きの見た目のほうが、この画家の画風には、似合っていると、勝手に思うのだが。。。。。
実は、ボク、この画家のことが、高校生の頃から気になっていた。
教科書に載っていた『ルター』の肖像画のせいだ。
あの沈鬱な、冷たく、息を殺したような静謐が漂う画風が、気になってしょうがなかったのだ。
明らかに、南のボッテチェリのヴィーナスとは異質な絵。ボクは、クラーナハから、ゲルマンの几帳面さを感じ取っていた。
さて、ではこの展覧会、いや(本物が来ているとしてだが)絵がどうであったかである。
割と、よくなかった。
画集で鑑賞したほうがいい画家の一人だ、クラーナハは。
東京芸術大学の『シュスタコーヴィッチ8番』
東京芸術大学の『シェスタコーヴィッチ 8番』は、よかった。
ボクは、無類のシャエスタコ贔屓なのだ。『
弦楽四重奏8番』『ヴァイオリン協奏曲1番』『ムチェンス郡のマクベス婦人』『交響曲9番 15番』などが、大好きである。
そんな中でも飛びぬけて好きなのが、この『交響曲8番』。
単純な音が、ここまで大シンフォニーになるのかと、いつも感心!
音楽そのものを褒めるのは、これぐらいにしよう!
東京芸大は、実に上手い。
高関健という指揮者であった。
知らない指揮者であるが、ここまで大学生を引っ張ったのだから、
凄いのだと、思った。
同日に聴いた、時任康文指揮、武蔵野音大 『シェーラザード』はいただけなかった。