太田記念美術館 『江戸の美男子』
浮世絵コレクションを誇る原宿の『太田記念美術館』で『江戸の美男子』と銘打った展示会があり、見てきました。
下の浮世絵は、『三代目市川八百蔵の梅王丸』です。
さて江戸時代が男色に対して、さほど嫌悪感を持たなかった時代であったことは、知られています。
前の時代の戦国時代が、言わずと知れた、男色全盛期ですからね、何分にも。
ところで、江戸時代の男色は、芸能と深い結びつきがあったようです。
女が舞台に立っていた『女歌舞伎』は、芸を見せながら売春をする集団でした。
風紀が乱れるとの幕府からのお達しがあって、『女歌舞伎』は廃れ、代わりに現れたのが『若衆歌舞伎』です。
そして『若衆歌舞伎』も『女歌舞伎』と同じで、少年が芸を見せながら売春をしました。
それも風紀が乱れるイカンイカン、とのオカミからのお達しで禁止となり、『野郎歌舞伎』が出現します。
この『野郎歌舞伎』が許された条件は、次の2つ。
①役者は前髪を落として月代(サカヤキ)を剃った野郎頭にすること
②踊りなどを極力避けて世話物の演劇を中心にすること
この②の条件を見ただけでも、当初の歌舞伎はストリップショーのようなことをしていたのだろうと想像します。
さて、『野郎歌舞伎』小屋にいた少年。
彼らは、何がしかの理由で芝居小屋に集まった少年達でした。
少女で言えば、悪所吉原のような感覚。
彼らは容姿端麗であり、特に女形の修行少年は、「陰子」「色子」あるいは、「陰の間」ともと呼ばれ、女形修行のためと言う建前で、体を売らされました。
舞台に立つようになっても、「舞台子」と呼ばれて色香が衰えるまで、体を売っていました。
売上は、小屋の親方の懐を潤したでしょうね。
女形の修行少年であった彼らは、女のような形(ナリ)をさせられ、女のような仕草で、金持ちや高僧の相手をしていたそうです。
それは、現在でいうところのニューハーフのような感覚だそうで、13〜19歳の花の時期に、体を売っていたようです。
長谷川一男の『雪之丞変化』という映画がありますが、あんなナリの感じの少年が、体を売っていたのだと思います。
ただし『雪之丞変化』の長谷川一男は、中年太りのおじさんで、言いようもないほど気持ち悪いですが。
やがて時代(18世紀後半)は変わり、舞台に立たない専業の売春をする少年を集める店が表れてきます。
これが『陰間茶屋』です。
場所は、日本橋芳町(現在の人形町で芝居小屋が近くにあった)や湯島天神(上野寛永寺の近く)がメインで、他にもあったようです。
女形の色子ではないので、女装もしなくなりました。
男らしい男の子(ノンケっぽい男の子)を売る感覚、現在のウリ専の店の感覚に近くなっていたのかもしれません。
『陰間』は、明治の文明開化とともに、滅びた文化です。
陰間の語源は、源義家の寵童 鎌倉権五郎景政の「カゲマさ」であるとも言われています。コジツケの感じもするのですが。
さて、戦国時代は武将の嗜みやステータスとして男色が相当はやったそうで、伊達政宗や武田信玄(相手は高坂弾正昌信)、上杉謙信、織田信長などの時代を代表する名将は、寵愛する少年を囲っていました。
彼らは、見目麗しく凛々しい若武者であることを条件としていて、現在で言うノンケっぽい男の子の感覚に近いものであったと思います。
この話の括りは、歴史に名を残した人物の男色関係を簡単に記録して終わらせます。
①後白河と藤原信頼
②藤原頼長と源義賢(木曽義仲の父で、タチをして頼長を満足させたことが『台記』に書かれています)
③源実朝と和田朝盛(和田義盛の孫)『吾妻鑑』に「朝盛は将軍のご寵愛なり」と記載あり。)
④足利義持と赤松持貞(この持貞は赤松則村の曾孫で、赤松氏の分家の人間でありながら、義持に播磨・備前・美作の守護をおねだりする。これに怒った赤松満祐は播磨に籠城。さらに義持の家臣も満祐の所領を持貞に与える愚を唱え、持貞が義持の側室に手を出したという濡衣で、自害させられる。)
⑤足利義教と赤松貞村
貞村は、上記の持貞の甥で 「男色の寵、比類なし」と記録に書かれている。
この貞村に、赤松満祐(播磨・備前・美作の守護)の弟の所領が与えられたことが、嘉吉の乱の要因の一つである。
ちなみに、この満祐の弟は義雅といい、その義雅の孫である政則が禁闕の変で赤松を再興した。
足利氏の歴代将軍は、寵童にずいぶん振り回されています。
⑥蘆名盛隆(18代で蘆名氏の当主)と大庭三左衛門
会津の名族蘆名氏は、男色をしばしば調略の手段として用いていた。
これが物語るように、戦国時代は、美しい若武者を敵方の武将の下に、刺客やスパイとして送り込まれていたように思われる。
⑦大内義隆と平賀隆保(小早川一族で大内氏の人質であったが、義隆に見初められ安芸国人の家・平賀姓を名乗らされる。義隆が陶隆晴に殺害されると、毛利元就に殺された人物である)・小早川隆景(『陰徳記』に「四朗隆景は容姿甚だ美なりしかば、義隆卿、男色の寵愛浅からず」と記載されている)