三島作品は、面白くない!
僕の高校生の時間を、塗り固めていたのは、ヴィスコンティーと三島由紀夫でした。
貧乏人のゲイが、貴族趣味に身を浸すといった、典型的パターンです。
そんな三島フリークであった僕が、30歳を過ぎたころから、なんとなく三島由紀夫の作品に嫌気を感じ始めたのです。
確かに、彼の描く世界は豪奢で、皮肉っぽく、美しい舞台で、僕の好みにあっているのですが、なぜか馴染めない感じを抱かせ始めたのです。
今回、熊野のことを調べていたら、三島の『三熊野詣で』の話題につきあたり、久々に三島でも読んでみようかと、文庫本の短編小説集を購入しました。
そして、今回の読書で、どうして僕が三島嫌いになったのか、ウスウスですが、分かってきました。
文章がよくないのです。
ハッとする比喩や、綾なす語彙が散らばっていて、なんと言うか少女趣味のような、素人を誤魔化しているような、そんなムードの底に、読者との距離を置こうとする深層心理のようなものが働いているのです。
この距離は、三島自身が自分の本性を見破られないようにと、そうとは意識しないで動かしている、そのペン先から零れ落ちているのです。
この距離感が、僕を三島の小説に没頭させない理由であり、文章が悪いと断言させる条件にもなっているのです。
あと、三島の文章は、物凄く古臭い感じを与えます。
例えば、大好きな谷崎を例に挙げると、大正・昭和初期の作品の文章は古臭いのですが、その時代の粋が匂いたっていて、それはそれで新鮮なのです。
しかし、三島は!
確かに三島の全盛時代は、現代とさほど離れていないので、中途半端なイメージを与えるのかもしれません、が、それにしても異質な古臭さがあります。
まま、素人騙しの見せかけのレトリックと、本性を見透かされないようにと慎重に置いた距離感が、僕には、文章の稚拙さや嫌味につながってしまい、三島嫌いにさせているのです。
悪いのは文章だけではない。
物語の起承転結に甘さがある。
また、あり得ない登場人物が、飛躍しすぎるストーリーで生活をしている。
絵空事も、はなはだしい。
飛躍しすぎた物語を描くことは、多少の想像力はいるにしても、容易である。
飛躍しすぎた物語を描くのは、二流の作家である証拠である。
まあ、三島作品を一言でいえば、とりえの無い女の厚化粧のような、見かけ倒しの作品ばかりと言うことです。
忘備録として、下に熊野の調べた内容を挙げておきます。
道者が初めて岩田川に出会う稲葉根(いなばね)王子から熊野の霊域の入り口である滝尻王子まで、道者は十何度と岩田川を徒歩で渡る。
何度も何度も岩田川を徒渉して、道者はその死と浄化の体験を深めていく。その聖なる流れは強力な浄化力をもち、川を徒歩で渡ることで罪業をぬぐいさることができるとされていたためだ。道者は浄められながら死ぬことができた。
熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来。
熊野三山である 熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)は薬師如来、
熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのふすみのかみ)は千手観音。
三山はそれぞれ、平安時代後期以降の浄土信仰の広がりのもと、
本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、
新宮の速玉神は薬師如来、
那智の牟須美神は千手観音を本地(本体)とするとされ、
本宮は西方極楽浄土、
新宮は東方浄瑠璃浄土、
那智は南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、
熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった。
人々は生きながら浄土に生まれ変わることを目指して、熊野詣の道を歩いた。
熊野の地は、豊かな自然に囲まれ森閑な中、神々がおわす処と言われるとおり、日本独特の自然信仰・山岳宗教や神仏習合の信仰の形が 相まって、昔からパワースポットとして人々の尊崇の対象となっていた。
熊野の地、とりわけ熊野本宮大社を中心とした地域は、日本人の“心のふるさと”、日本の原風景と言われる所以は、これだ。
熊野の地を訪れた誰しもが、心が癒される“リフレッシュ”される地である。